うそくさいな


昨日の夜、こんなことを考えた。
世の中の大体のものはうそっぽい、茶番くさい、薄々そう思いながら生きてきたなと感じた。義務教育、諸々の行事、形式的な会合、大人数の飲み会、大学のウェイなどのノリ、形だけの友情、婉曲的な表現、社交辞令、大人でいること、上下関係、敬語、面接、社会、その他いろいろ。

そういうものを目の当たりにするとだるいなと思うし、やりすごした後はとても疲れる。僕は、こういう「大した意味は無いけど形式的にやらなきゃいけないこと」に真剣に取り組むことができない。真剣に取り組むポーズしか取れない。ポーズを通り越して本気さを見せることが社会でうまくやっていくコツなのに、それができない。だからいつもはみ出してしまう。ボロが出てしまう。

みんな、そういうことをちゃんとやっている。だから社会でうまくやってける。根っからの社交マンはこういうことを何の違和感も持たずできるのだろうと思う。すごいよな、社会性、ソーシャルスキル、グループセオリー。社交強者はそういうものを駆使して、場を支配して拡大する。性格も良いから人望で人が勝手についてくる。どんどん自信をつけて、自身にとって居心地のいい場所を構築していく。

僕はそういうのを傍から見て、うそくさいな、茶番ぽいなと思っていた。酸っぱいぶどう的シンドロームに陥って僻んでいたとしても、そういうものにリアルさを感じられなかった。

それは、彼らの共有しているカルチャーに共感できなかったというのが一つあると思う。未来は明るい、やりたいことをやろう、努力は必ず報われる、ヒットチャートのJPOP、多数派、賑やか、今をとにかく楽しむ、地元最高、ポジティブ志向、仲間、恋愛、ロマンチスト、など。端的に言えば真逆を行っていたから。

そういうものって、どこか空虚だなと思ってきたし、なんなら今でも思っている。僕にとってリアルさを感じるものは、ネガティブな感情であり、孤独であり、一人でもやもやしている時間であり、マイノリティであり、50年代のジャズであり、縁の無い地を一人で旅行している時であり、数少ない友人と人生や考え方に対する価値観を共有している時だった。

社会に出て、やっぱりつまづいた。仕事を辞めて、旅に出た。スペイン・マドリッド。「ああ、ただ生まれて生きて死ぬだけなんだ、人間て。」「何一つ確かなものなんてないのかもしれない。」「何もする必要なんてないのかもしれない。」そんなことに気付いた。