物語のはまりたがる癖

物語にはまりたがる。出来事を無理やり関連付けてストーリーを作る。その中に自分を置いて誇らしげに思ってみたり、悲劇の当事者になってみたりする。そういうことを辞められない。四半世紀続けてきたから中々そこから抜けれない。

ほんとうは偶然とか運とかによって、ただ出来事が無秩序に発生しては消えていく。ただ無常があるだけなのに、上記のようなことを考えては浮き足立ったり、憂いたりする。馬鹿だなあ。

僕は凡人以下だから、あ!気づいたと思っても、すぐに忘れてしまう。だから書いているのかもしれない。書き残せば少しはましになるかもしれないと思って。

意味

前に書いた記事

何の意味もない。生まれてきたことも、生きてることも、死ぬことも。ただ命の事実としてそれらがあるだけだ。そんな風に気づいたのが上記記事だ。それをもう一度確認しておきたくて、書いている。

ただ命をつなぐために生きている。そこに本来なんの目的もない。どこへ向かうのか、その為に何をするのか。そんな一般的なベクトルなんてないし、なくても生きていける。なぜなら死に向かって生きているだけだから。

そんなん当たり前じゃんと思うけど、生きる以外の一切の思考が消え去った時、本当に上記のことに強く気づく瞬間があって、それがマドリッドのホテルでのことだった。頭はすっきりなんてもんじゃないくらいすっきりして、じわじわとエネルギーが湧いてきた気がする。あ、僕は本当は何もやらなくていいんだな。やる必要なんて元々なかったんだな、と思った。

人間は、生まれて生きて死ぬだけだ。生まれることはもう終わってるから、後はただ生きて死ぬだけだ。そこには何も意味はない。周りに見えるのは意味らしきものだけだ。意味なんてのは本来存在しない。人間が作り出したものだ。そして、意味なんか無いということだけが事実だと。

だから、何に対してもとらわれる必要はないのだと思う。

▽More

◯見返り

見返りを求めるということと、見返りを求めないということについて、以前よりも少し分かった気になったので、なんとなく書く。

自分の行為に見返りを求めるということについて、僕はあまり良いイメージを持っていない。浅ましい、狡い、がめつい、損得勘定などなど。「自分はこれだけやってあげたんだから、あなたにもこれだけしてほしい。」というように、場合によっては傲慢で、なおかつ上から目線の行為のようにも受け取れる。

まぁ往々にして見返りを求めてしまうのだけれど。

で、少し分かったことを言うと、見返りを求めるということは、相手の反応に依存するということだ。それに比べて見返りを求めないということは、一方的な自分の行動であるから、相手の影響を受けず、なおかつコントロールできる。度を過ぎたものについては無責任なおせっかいとも言えるが。

ということはだ、実質的な部分は別として、心理的な部分だけ考えてみれば、見返りを求めない行為の方が安定しているし、気分の良いものだということが分かる。見返りを求めないというのは実はかなり得な行為なのではないか、と思うようになってきた。

だから自分が楽にできることで、相手が喜ぶことがあれば、やればいいのかなと思った。ウィンウィンでお互いの効用が高まる。電マじゃないよ。

○執着しない

知らないうちに色々な人や物事に執着してしまっている。好き、嫌い共に執着の現れだ。あと期待とか嫉妬とか後悔とかそういう諸々の感情も。

なぜ執着しない方がいいかと思ったかというと、単純に疲れるからだ。とくに僕の場合、嫉妬心に振り回させた後なんかは、精神の減りがすごい。だいたいの場合、そういうことで疲れてしまっているということに気づいた。

少し仏教的な考えと思われることを言ってみると、慈愛という感情(なのかな?)だけが執着に当てはまらない。だから慈愛の心を育てていけば、心が強くなる。と思う。多分。本で読んだ。

○期待しない

期待することには、ほぼデメリットしかないと思うようになってから期待しないように心がけている。期待するということは、喜びのハードルを上げることだ。喜びのハードルを上げると、良い結果が出てもそれなりにしか喜べない。それと比べて、期待していなかった場合の同じ喜びの方が、喜びの度合いとしては確実に大きくなるだろう。

一番手痛いのは、期待以下、もしくはゼロやマイナスの結果が出たときだ。期待してそのような結果になった場合、往々にして期待は怒りや失望などの負の感情に変わる。

それに、期待はプレッシャーを生み出す。プレッシャーは物事をなす上で重荷だ。ないほうがいい。

だから期待しない。自分にも他人にも期待しない。ただ目標に基づいた計画に従ってやることを淡々とやるだけだ。

○無理しない

僕は自分に甘いから無理できない。だから、無理しないと決めた。無理してしまうと、反動で2倍くらい休んでしまったり、怠けてしまう。無理も続けば習慣になるというけれど、少なくとも僕は無理だ。そんな自分の性質を受け入れてから、無理しないということについて、考えた。

無理しない為に、できることは三つあると思っている。「やめる」と「逃げる」と「やり方を変える」だ。

「やめる」は、もう無理しながらやっていることをやめてしまうこと。自分には向いていないとあきらめること。選択肢を捨てることだ。無理していることで、やめても生活に支障が無いものであればやめてしまって問題ないのでは、ということに気づいてからは色々やめている。楽だ。選択肢を捨てることは、新たな選択肢を探すことと同義だ。迷っていたり停滞していたりするなら、バッサリ切り捨てて、一度すっきりした方がよりよい選択肢が見つかるかもしれない。知らないけど。

「逃げる」は、無理しながらやっているけど、自らの意思でやめられない時にとる防衛手段だ。もう全部いやだ、無理だ、逃げたいってなった時にやる。僕は突然会社を休み、それから行かなくなって退職届を出した。もう精神的に追い込まれたら、まだなんとかやってける手段があったとしても逃げてしまっていいのでは、という考えになった。これでかなり楽になれる。某アカウントが言っていた言葉で「「すべてを放棄して走って逃げる」という概念を覚えて以来楽になりました。」というのがある。この通りだと思う。逃げられるなら逃げたほうがいい。他人なんかどうでもいいから自分を守ろう。僕は責任とらないけど。ただ、そういう選択肢があることを頭に入れるだけでも、随分楽になると思う。

「やり方を変える」が、最もとっつき易い選択肢かもしれない。期限を延ばして一日あたりの量を減らす、人に頼んで総量を減らす、やる順番を変える、習慣化してしまう、プロセスを細分化するなど、工夫しだいでかなりやり易くなるのではないか。特に、プロセスを細分化するということについては、これで大抵の問題は解決するのではないかというほど、効力があるように思う。細分化してしまえば一つ一つの作業に集中できる為、失敗が減るからだ。ある程度進んだら、全体を俯瞰して辻褄合わせを忘れずに。ずっと虫の目だとめちゃくちゃになるから。

っていろいろ言ってきたけど、一番大事なのは、無理している状態に気づくことだと思う。もしその状態から自分を鼓舞して状況を打開しようとしたりするものならば、一部の超人以外は多分メンタルがもたないのではないか。まずは、現状を可能な限り正確に把握しない限り、適切な対策も立てられないように思う。だからまず気づくこと。














以上、ビジネス本で得た知識を頭の中で適当に組み立ててお届けしました。

○頑張らない

頑張りたくない。頑張るのはきついイメージがあるからだ。

きつくても、目標達成のために頑張る。色々なものを我慢して一心不乱に打ち込む。くじけそうになっても絶対あきらめずに頑張る。努力は報われる。

色々な本を読んで、なんとなく考えて分かったことがある。「頑張る」というのはあくまでも精神面でのことなのだと。実質的な部分での進歩が見られなくても、本人が「頑張って」いれば、本人的には「頑張った」のだ。「頑張る」という言葉は客観的な基準をもたない主観的な言葉だ。つまり、何事も「頑張る」と思って取り組めば、それは「頑張った」ことになってしまう。ちょっと意味分からない文章だな。

上記から、「頑張る」という言葉がどれだけあてにならないもので、なおかつ、他人からかけられるこの言葉は無責任で、理不尽で、無意味なものだという考えに至った。

しかし、これまで散々聞いてきたからか、無意識に「頑張らなきゃ」という声が心の中で聞こえることがある。そういう時に「頑張らない」という言葉が出てくるようにしている。

「頑張る」こと自体に意味はない。意味の無いことは捨てたほうがシンプルに生きられる。だから「頑張らない」。