書きかけ 地力

地力の差みたいなものを考えることがある。なんというか、本質的なところを分かっている感というか、想定外のことが起きても落ちついて対処できるとか、現状に合わせて柔軟に労力や時間配分を変更したり、画一的な基準にとらわれることなく目的を達成することができるような感じ。

その大元はなんなのかと考えたときに、まあ経験の差だと言ってしまえば終わりなんだけど、もう少し分解して考えてみた。経験といっても、成功経験ではなく、むしろ失敗経験のほうが重要なんじゃないかと思える。よく言われることだけど、失敗から学ぶことのほうが多いし、なにより図太くなれる。それらが地力の差なのではないか。

他にもある。試行錯誤の過程で、色んなパターンを考えてみたり、様々な角度から見たり、プロセスを細分化したりすることでしか見えてこないものというものはやはりある。で、それらは単純に論理的思考では導けないものだったりする。その過程で得た経験が、勘やひらめきとなって厳しい局面を救うことだってある。

ここまで書いて、こういうのを意識してめんせつの問答つくるのいいかなと思った。

受かっていろいろ落ち着いたらやりたい企画

・風俗に何日連続でいけるか
・一週間毎日同じ時間に同じ女の子を指名してみる
・noteに書いて公開 課金記事 めっちゃ濃い記事を書きたい 自分の思い出として書き残しもしたい そういう思いでも作りたい
・音声取って聞きたい人に課金する
・毎日いきなりステーキ
・毎日ホテル住まい

困るのでやめたくなる 解決できないから


僕が人を好きになるときってほぼ必ずこのステップを踏んで、あきらめる。あきらめて楽になりたいから。あきらめられれば恋愛しなくてすむ。恥をかかなくてすむ。どうすればいいかわからない、という困惑と焦燥から逃げられる。

その人のあらを探す。興味がないと思い込む。もっといい人がいると、もっといい出会いがあると思い込む。恋愛なんてしなくてもいいって思い込む。自分の気持ちと向き合うのをやめる。気持ちを押し込める。なかったことにする。

また平穏な日々が訪れる。そしてまた自意識をこじらせる日々がはじまる。

あのひと

昨日の職場の飲み会で、あのひとが彼氏と別れたと知る。いや、前からそのことはなんとなく知っていたから、正確にはあのひとが僕がその事実を知ったことを知ったということだ。あのひとが別れたと公表したから。

あのひとが苦しむのを、あのひとが悲しむのを見ていられない。他人事に思えない。他人にあまり興味の無い僕が。あのひとは人前では意識して気丈に振舞っているということを知っているから。

あのひとの幸せな姿をそばでずっと見ていたいなと思う。それが僕の幸せなんだろうなと思うから。自分勝手で月並みすぎるのは承知のうえで、でも美化したくて。そのためだったら色々と頑張れてしまう気がする。

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特別可愛いわけじゃないし、背も低くて童顔でどちらかというと芋っぽい。おっぱいもそんなないし、エロくもない。でも愛想がよくてケラケラとよく笑って、人がいい。素直で心がきれいだ。あと顔が好き。見てると安心する。声もちょっと低めで落ち着く。疑いなく好きだと思える。

メモ

自分を 自分の心をほっておこう
そしてながめていよう 自分の心をなんとかするのではなくて ただみてよう
否定もせず 肯定もせず
逃げることもなく 追い求めることもなく
そうできなかったらとらわれてしまえばよい
とらわれて振り回されて 気づいたら離れればいい
離れられなければふりまわされてていい

観察する→自覚する→把握する→受け入れる→捨てる

動物園の動物をおりの外から見るように自分の心を見ていたい

自分の居心地のよい場所を探しながら、自分も変わっていく

かきかけ.

無理しない方が効率がいいし結局うまいくのでは だから辛くならないほうが効率がいい だから安心していい


自分を追い込んで辛い思いをしながら努力しても続かないし効率はあまり良くないのではないかと思った。僕の場合は。だから必要以上に自分を追い込んでストレスをかけて努力する必要はないし、むしろそんなのは逆効果だと思った。だから僕は僕のために自らを酷な環境に置かない。置いてしまったらそれは僕に対しても周りに対しても損失だと思う。もう僕は自分のためにキツキツの環境を選ばない。選んでしまったら変える。だからもう辛くて仕方ないことはなるべく起こさない。そうなる前に自分で舵を切る。そういう心積もりでやっていこう。

かきかけ

やっぱりどう考えても「生活>仕事」なのであって、「仕事>生活」ではない。仕事優先になる仕事は使命感を持てる人だけがやればいい。そんな仕事はそう多くはないはずだし。僕はそういう仕事はしない。仕事のために生活が破綻してしまったらそれは仕事ではないのではないか。生活するために仕事をするのであって、仕事をするために生活をするのではない。

どうせ死ぬし ⇔(≒) どうせ生きるなら

「どうせ死ぬし」という言葉がツイッターで流布していて、まぁ確かにそうだなと思った。どうせ死ぬんだから、あらゆることはどうだっていい、みたいな意味合いで使っているんだと思う。こういう意味合いで「どうせ死ぬし」と思いながら生きることは楽ではあると思う、短期的には。全てを放棄した気持ちになれて、軽くなる。でも、死んでないならまだ生きないといけない。日本では病気か自殺でもしない限りそう簡単に死ねないのであって、だいたいの人はもうしばらく生きざるを得ないのではないかと思う。そう考えた時に、「どうせ死ぬし」と考え続けることは   だめだ やっぱやめた まとまらない   ただ、なんかこの言葉は真理めいてるけど、僕にはそう思えない気がする。そんなもやっとした思いを言語化したかったけどできなかった。

ひとつ確実に言えるのは 自分が変わらないと人生は好転しない だから徐々に悪いと思ったことを把握して 直そう

なんか自分の悪いところとか弱いところを直そう、という心の構えができた気がしてこのメモを残したのだと思う。自分を変えることが、自分を成長させることが、強くなることが、問題解決の一番の王道なのだと思うことができた。そしてそれは僕が思っているほど難しいことではないような気がしてきた。
サボることは怠けに間違いないんだけど、頑張ることもまた怠けが体現したものである時があるのではないかと思った。頑張るってことは、いつもの基準より上の基準でやっていくことだと思う。とすると、頑張るが必要になるってことは、それまでの遅れを取り戻さないといけない事態になったという場合であって、それはサボらなければ回避できたことなのかもしれない。
頑張らないために、日々サボらないようにしよう。

(書きかけ)楽しいとか没頭できるとか満足感があるとかどちらかというと自分のためになるというコンサマトリー的な軸でやっていきたい

有益だとか、金になるとか、人の為になるとか、そういう目的を見据えた動機よりも、「今」「自分が」「やりたいから」やる。それでなおかつ、それが生産的なものであればよいなと思っている。最近は。

コンサマトリーの意味↓(http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/3S/si_consummatory.html)文献は読んだことないです。読もうかな。

「行為や関心の志向、あるいは、それらの基準となる価値の性質を示す対概念。自己充足的とは、それ自体が主体の欲求を充たす行為や関心の志向を意味するのに対し、道具的とは、ある目標を達成するための手段的な志向を意味する。パーソンズ、T. は、行為者の動機によって、行為の志向性を認知的、カセクシス的、評価的に区分し、そのうち、評価的行為志向を、道具的、表出的、道徳的に区分した。ここで道具的志向の行為とは、所与の目標の達成を目的とする行為をさす。これに対し、表出的志向の行為とは、即時的な欲求充足を目的とする行為を意味する。この表出的 expressive を自己充足的とのいう。
 ある行為が自己充足的か道具的か、あるいは双方の志向を兼ね備えるかは、その文脈や行為者に依存し、行為自体に規定されるわけではない。たとえば、健康を維持するための栄養補給としての食事は道具的であるが、食べること自体の快楽を求める場合は自己充足的である。あるいは、会話についても、ある内容を伝達することを目的とする場合は道具的だが、コミュニケーションを遂行すること自体に意味がある場合は自己充足的なものといえる」(高谷[2012:519])

高谷幸、2012「自己充足的/道具的」大澤・吉見・鷲田編集委員・見田編集顧問[2012:519]



目的志向(道具的)には、モチベーションがいる。モチベーションは、外から持ってこないといけない。ガソリンを給油するイメージ。だから、ガス欠で動けなくなることがある。常に何かしらの燃料を調達してこないと走り続けることができない。それが僕の持っているモチベーションというイメージだ。

上の文章を読むと、自己充足的に生きることは、ただ享楽の限りを尽くすとか、オナニーをし続けるとか、そういう自己完結的で無益な消費をすることに思える。でも、自己充足的(コンサマトリー的)に生きること=周囲に対して無益であるとは限らないのではないかとも思う。あ、上の文章でも書いてあるな。そう、僕は道具的であり自己充足的であることがやりたいの。

---ここからメモ段階---

勉強を楽しむ、道具的→自己充足的への転化→両立
趣味で書いていた絵が売れるようになる、自己充足的→道具的へ転化→両立

自己充足的でやってけるものをやっていきたい

(書きかけ)まえの仕事の人

今日記を書くときに、171118とか、タイトルに日付を一応残しておくんだけど、この書き方は前の職場の先輩がファイル名の管理でやっていたのを真似たものだ。なんで急にそんなことを思い出したかっていうと、日記で日付を書くときに、いろんな書き方があるなと、ほかの人のブログを見て思ったから。11/18とか、11.18とか。でも自分はこんな書き方してるな。あっそういえば、みたいな感じ。

それで先輩のことを思い出した。僕にとってその先輩は仕事で初めての先輩だった。当時ちょうど30。紆余曲折あって27とかまで大学生だったらしい。僕とは全く違うタイプで、言うことはズバッと言うし、いろいろ割り切って仕事をするタイプの人だったのだけど、最初から慕いたいと思える人で、慕っていた。当時の上司は好けなかったが、もしこの先輩が上司だったらいいなと思えた。

なんでそう思えたか。それは多分、僕のことを後輩として可愛がって見てやろうという、疑いの無い純粋な気持ちが言動を通して伝わってきたからだと思う。上司はどこか信頼できなかった。

ある時、組合行事に係ることで、連絡の行き違いで僕がちょっと恥をかくみたいな感じになったことがあった。後日、その先輩にそのことを、「まぁ概ね特に問題なかったんですけど、なんか行き違いがあったんですかね~」みたいな感じで報告したら、すぐさま組合に電話して問い質していた。語気を強めたクレーマーではなく、理詰めで冷静に相手を追い込むような感じで。でも怒りは相手にも感じるように。

そのことで僕は嬉しかった。ああ大事に思ってくれるんだなと。それに加えて、間違ってることはちゃんと言うんだなと。頼りがいのある人だと感じた。

(途中)

ツイッターの代わりにブログをやっている気がする。たぶんそう。ツイッターやる気しなくなってきたけど、承認欲求は残っているのでブログにぶつけているようなアレ。

特に書きたいこともないけど何か書きたくて書いていたりする。代わり映えのしない日々だから書くことがないのだと思う。だからといって刺激の多い日々は疲れるので送りたくない。話題を求めて積極的に行動するとかもあんましたくない。

昨日の夜、布団の中でスペインモロッコ旅行記を読み返していた。僕はほとんど自分の為にブログを書いている。そういう意味ではこれはブログではなくて日記なのだ。日記をインターネットに公開しているだけだ。

日記をつける意義はないと思うけど、後で読みかえしたらそれなりに楽しいし、書くこともけっこう好きだから書いていると思う。大方そんな動機だ。コンサマトリー的な。

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なにか目標を達成する為に日々を懸命に生きるっていう目的志向の生き方と、その時そのものを楽しむコンサマトリー的な生き方がある。目標志向的な生き方こそ健全で、コンサマトリー的な生き方は怠惰だみたいな考え方をなんとなくしていたけど、それはちょっと違うかもしれないと思うようになった。

目標志向的な生き方はなんか果てしない。

(書きかけ)埋め合わせる 満たす 求める

さびしさを自分以外のもので埋め合わせてもなんの解決にもならない。自己顕示欲を満たす為に他人の歓心を買おうとしてもなんの解決にもならない。そとから求めてもだめだ。なんか