こーむいんを目指すようになった経緯

面接シーズンに入るにあたって、嘘を塗り固める必要がある。その前に、しっかりほんとのことを確認しておかないといけない。そう思ったので書く。

僕はストレートでマーチの大学に入り、ストレートで卒業した。文系の13卒だ。就活は買い手市場。僕が目指していたメーカーなんか人気で大手は説明会すらとれないとこもあった。マーチなのにだ。

そんな中で僕は大手になんか行けるはずがないと思っていた。元々コミュ障だし、売り手市場の就活戦線勝ち抜ける気がしなかった。実際大手は全落ち。esが二社通って、一社面接に進んだ程度だ。ちなみに全部メーカー。

メーカーを志望していたのは、「まだマシだろう」という理由からだ。大体文系の四大卒で非エリート人材なんて、できる仕事は限られている。準大手以下の銀行信金、IT(se,pg)、飲食、不動産、メジャーなのだとそんなところか。そんなブラックな選択肢に割と絶望していた僕の一縷の望みがメーカーの法人営業だった。

ルート営業なので既存顧客と仲良くしながらたまに売り込んで買ってもらえればいいみたいな甘いイメージを抱いていた。そこになんとか潜り込もうとしていた。

大手メーカーに全落ちした僕はそこまで落胆していなかった。はなから受かると思っていなかったから。むしろ、ここからが勝負どころだと思っていた。四季報や新聞をめくり、有報などの投資家向け情報を漁りまくり、中小優良企業を探した。

そこで出会った会社が前職だ。売上は大手の1/3程だが、営業利益率が高く、売上も安定して微増しているインフラ系部品の法人営業だ。エリア限定で異動がないのも魅力的に見えた。工場見学もしてまったりした雰囲気だなと感じだ。面接は2回。スッと内定が出た。

安心して入社した。が、だ。ここからはかこの記事でも色々書いているように、三年経たずに辞めてしまった。

過去記事一
過去記事ニ
過去記事三

簡単に自分が仕事を無理になった原因を考えてみる。

①仕事内容自体合わなかった
②上についた人が部下潰しだった
③組織の歪みのど真ん中に置かれた
④仕事に対する認識が甘すぎた

こんなところだろうか。とにかく無理になった。会社に行くのが辛すぎた。電話を取るのが怖くなった。いつもストレスを感じていた。相対立する上司の間で板挟みになり、仕事が進まない。もう毎日パニック状態になっていた。何もできなかった。何にも自信を持てなくなった。過食で10キロ体重が増えた。朝はほぼ毎日下痢をしていた。退社時に吐き気を催した。営業会議の日に、もう辞めようと思い、電車を乗り過ごした。そこから会社にいくのをやめた。在席期間2年9ヶ月。

会社自体はブラックではないし、残業時間も月20位ですんでいた。ただ人間関係がこじれにこじれて無理になった。僕の置かれた人間関係がブラックだった。何もうまく行かない。何をしても怒られる。何もしない方が、僕なんかいない方が確実に会社のためだ。そう思ってしまうほどに僕はダメだった。

正直今でも整理がついてない部分がある。全部自分が悪かったのではないか?ほとんど会社の体制がクソだったのではないか?両極端に考えがブレることまである。

組織の中の胃痛ポジションに置かれて、仕事がしにくい環境だったのは間違いない。与えられた仕事のレベルが経験年数に比して高かったのも間違いない。自分が苦手なことが多い仕事内容だったのも間違いない。これらが意図された不利益取り扱いだったかは分からない。自分が甘かったのも間違いない。悪循環にハマってしまった。そこから抜け出すことができなかった。

辞めてしばらくして民間就活をするか、公務員試験をやるかという選択肢を迫られ、民間就活をしながら公務員試験をやろうというあれになった。営業は無理だ、絶対。そう思った僕は民間就活でも事務を中心に受けていった。

しかし、ジョブチェンジー職種変更での転職活動ーはきつい。しかも事務なんて人気職種はなおさら無理、簿記会計法律無資格なのに。中小メーカーの総務を受け、落とされて悟った。これはきついぞと。

そして公務員試験にシフト。だらだら受け続けて今に至る。

と、その前に今の仕事でヒジョウキン職員になったのだった。無職が耐えられなかったから。あと、ヒジョウキンでも事務やっとけば理屈通るしね。無職でいきなり公務員志望するよりは説得力ある。

僕は仕事を消去法でしか決めていない。なぜなら、ほんとうは仕事なんてしたくないからだ。ならなぜ無職を続けられなかったのか。それは世間体やプライドに耐えられなかったからだ。僕の友人は大体立派でエリート街道を進んでる人も多い。だからこそ、そういう友人に顔向けできない。それに耐えられなかった。

結局、辛い状況から逃げて逃げて今の選択をしている。僕はそういう情けない生き物なのだ。

そんなんじゃ、こーむいんになっても仕事を続けられないのでは?と思ったらそうでもなさそうなのだ。これは僕の現地観察から分かったことだ。こーむいんの仕事は職務分掌が明確で、均質化・簡易化されており、誰でもできるようになってる。だからなんとかやってけそうだと思っているのだ。

というクズっぷり。非合理で矛盾ありまくり。楽な方へ逃げてるだけ。それでいて社会的身分はほしい。都合の良すぎる人間だ。真面目系クズとはこのこと。

「見えないパワハラ」の体験



わかる。超絶わかる。かくいう僕もほぼこれに該当するパワハラで前職を辞めた。(前職の僕の指揮系統そのものがカオス過ぎて遅々として仕事が進まないというのもあったけれども)この「見えないパワハラ」という言葉がすっぽり当てはまるような仕打ちを日々受けてきたと思う。

僕の指導者(3人いたうちの1人)が、この「見えないパワハラ」を行う当事者だった。僕の前任は1年で仕事を辞めた。だから僕が追加要員で急遽採用されたのだった。ということが辞めた今ならよくわかる。前任の教育担当は典型的な部下潰しだった(過去何人も潰してきたらしい)。社内でも社長含めて全員がビビっているような人だった。係長なのに。

というかまあ、係長だからこそ、あんなパワープレイができたのだな、と思う。一番営業の現場を知っていて、一番結果を出していた。一番実力があった。管理職の責任もない。だから一番声がでかく、腕力で社内の生産工程・開発工程を自分の有利なようできた。10年近くも同じ大口の取引先を持ち、いうなれば好き勝手やっていた。

入社して一年弱、新入社員の僕に悲劇が襲い掛かる。そのパワープレイ係長が10年担当してきた大口取引先を僕に引き継ぐというのだ。はい、完全に会社が僕を使ってメスをいれましたね。これは僕にもわかった。僕は都合のいいワラ人形として使われたのだ。もちろん別の意図もあったのかもしれないけど、確実に主要な目的はメスをいれること。

ということで、僕はそのパワープレイ係長から仕事を引き継ぐということになったわけだ。ここから地獄が始まった。その地獄がツイートで引用した「見えないパワハラ」だ。箇条書きの部分はほぼやられた。それに加えて「見えないパワハラ」が、さらに見えにくくなる要因があった。それは「遠隔地からの指導」である。

僕が新卒で就職した会社は関西の地場企業(メーカー)で、そこでのエリア限定法人営業要員だった。エリアは関東で、基本的には東京支社での勤務とされていた。それが会社の組織変更でめちゃくちゃになった。本来交わるはずのない関西本社との取引先担当シャッフル。そして上記のパワープレイ部下つぶし係長から担当引き継ぎのコンボ。

つまり入社1年で、僕は電話とメールだけで大口担当を引き継ぐことになったのだ。それも部下つぶしの係長から。これで状況が外から見えなくなってしまった。誰も僕を助られないし、僕も入社早々どう助けを求めればいいかわからない。誤解されて東京支社の上司が敵になったこともあった。みんな、泥沼にはまる僕を遠巻きに見ていた。そこから2年、沈んでいった。

結局その係長は自分の大口担当を離したくなかったに違いない。はなから引き継ぐ気はなかったのだと思う。だから僕に巧妙に「教えたフリ」をしては叱り、自分の地位を守っていたのだと思う。僕は完全にカタに嵌められていた。僕を追い詰めながらもアメとムチを使い分け、自らを尊敬させるように仕向け、僕を依存させていた。

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今考えると、上記ツイートのような「見えないパワハラ」はあくまでも手段だ、ということに気付く。パワハラをする当事者が自己の地位を守る為、上記の手段を使って、部下を教育せず突き放し、自己防衛しているのだ。本質的には。

自分の会社での居場所を失わないため、危険を感じたら「見えないパワハラ」で人を潰す。そんな構図なのかなとも思った。「見えないパワハラ」なら責任追及もしづらいだろうから。

僕はそんな「見えないパワハラ」の格好の的になって新卒カードの会社を去った、というお話でした。

さいごのことば

「短い間だったけど、ありがとうね」

別れ際にこんなことを言われたとき、僕の中で何かがすっと離れていくのを感じた。それまで、僕の心は離れよう離れようとしていたのだけど、最初からそんな必要はなかったのだと感じた。引き留められていると感じていたのは僕の妄想だった。というか彼が分かってやっていたのか、それとも無自覚にやっていたのかはわからないが、とにかく途中からは茶番に近いようなものだったのだと気づいた。

初めから僕と彼の間には大きなギャップみたいのものがあったにも関わらず、僕はそれに気づかなかった。気づきたくなかったのかもしれない。彼の振るまいが巧妙だったのかもしれない。途中までは本気だったのかもしれない、でもそれは、途中からただやり過ごすだけの茶番になっていた。

「短い間だったけど」この言葉を聞いた瞬間、認識が初めから違ったのだと悟った。彼にとっては20年以上の中の3年に過ぎないが、僕にとっては3年の中の3年だった。これからそれが10年の中の3年になり、また彼と同様に20年の中の3年になっていくのだろう。しかし、当時の僕にとってみれば、あの会社で過ごした3年は紛れもなく社会人生活の100%であって、上司の彼の影響力は強大だった。そんな彼があの時、僕に最後に言った言葉だった。

「短い間だったけど、ありがとうね」

僕は、いつものように口角の両脇をぐいっと引き上げ、両目尻を口角に引き寄せた。
引きつった笑顔で、ワントーンあげた声色で、しかし控えめに言った。最後までいつもの調子で。

「ありがとうございました」

すっきりとした寂しさを感じながら、真っ直ぐ家に帰った。

部品1

入社初日、関西本社の営業フロアを見渡して、「あっ、やばそうな人が一人いるな、主任クラスかな」と思った。明らかに堅気っぽくない(堅気なんだけど)。その後、新入社員が集められて営業部長話を聞いたとき、「あ、この人もやばいな」と思った。この人も大分異質な雰囲気を出している。そして、入社初日の終了後、労組の集まりがあった。委員長からの話をきいたが、まぁこの人は気さくでいい人だなと思った。この人も営業らしい。

入社二日目、配属となる東京支社に出勤し、直属となる上司と対面。といっても、面接の際に会ってはいるので、この人は大丈夫だろうと再確認した。

やばさ順からいくとA部長>B課長(労組委員長)>C主任(堅気っぽくない人)≧D課長(東京支社の直属の上司)だった。結論、まぁ全員おかしい。

この4人が業務上僕の上に立ち、互いに反目することになる。そして僕はこの人間関係の中でうまくやってくことができず、3年弱で突発的にやめることになる。

部品2

朝6時、ピピピという音で目が覚める。いつものように気分は最悪だ。が、ベッドから出ようと体を横にしたとき、出張カバンが目に入り、今日の予定が頭をよぎった。その瞬間、気分が床を突き破ってズドンと階下へ落ちた。

―関西の本社工場で営業会議の日だ。

―今月も何も実績を残せなかった。クレーム大噴火中だし。詰められること間違いなしか。

―工場にいったら設計と生産管理にいろいろ謝らないとな。ぐぢぐぢ言われるんだろうな、金にならない仕事とってくんなって。短納期なんとかしろって、それがお前の役目だろって。

―A部長からも詰められるだろうな。あの案件宙ぶらりんだけど、やらないと競合に持ってかれるぞ。クレーム早く消火しないと、取引切られるぞ。と

そんなことを考え始めたら、動けなくなりそうになった。これ以外にも未処理で噴火しそうな案件はたくさんあった。

もう社内で、誰も僕の味方はいなかった。直属の上司でさえ、助けるふりはするものの、半ば諦めていたように思う。こうなったのは僕のせいだ。ただ僕のせいだけではない。明らかに僕一人だけ、一番厳しい環境におかれていた。

僕には直属の上司が実質4人いた。その4人は社内での立ち位置をめぐり、互いに反目している。そんな中で、仕事をしていた。仕事が進むわけがない。

僕は中小部品メーカーで入社3年目の営業マンだった。法人営業で関東エリアを広く担当していた。30社くらい取引先を持っていて、そのうち数社は誰もが知る大企業。もちろん会社売上の大部分を占める。なんでそんな大事な顧客を入社2年目の僕に任せたのだろう。サブ担当とはいえ。

砂利道

気がついたら、僕は砂利道を自転車で走っていた。
いや、走れていなかったから、正確には走ろうとひたすらもがいていた。
元々はアスファルトの整備された道を走っていて、
多少のゴミとか段差などの障害物あるものの、
気をつけながらすいすい走っていた。

それがある日、「お前はこの道をいけ」と言われて違う道を走ることになった。
はじめの方は、ある程度のスピードがあったから、なんとか走っていけた。
しかし、だんだんとスピードが落ちてきて、がたがたと振動を感じるようになった。
あれ、おかしいな、と思っているうちに、バランスを取ることすら難しくなってきた。

そしてついにこけた。
地面に手をついてようやく、自分が砂利道を走っていることに気がついた。

周りが声をかけてきた。
「なにこけてるんだ、早く走れ」
「バランス感覚ねぇなお前」
「なんで他のやつはすいすい走ってるのに、お前だけこけるんだ」

たまに、「どうしたの、大丈夫?」という声も聞こえたが、それはとても遠いところからだった。

みんな、誰も僕の走っている道を見ようとせず、「遅い」とか「なんでまっすぐ走れないんだ」とか
「もう面倒みきれないよ」とか言ってくる。
僕は、一番近くにいた人に小声で「砂利道なんですけど」といったが、
「我慢して走れ、走れるだろ」と言われて終わった。

急かされ罵られながら自転車を漕ごうとした。砂利道から自転車を漕ぎ出すのは難しい。
頑張ってペダルを踏むのだが、うまくバランスがとれず、何度もこけた。
その度に周りがとやかく文句を言ってきた。どうすればいいか聞ける人は近くにいなかったし、
僕はそんな余裕もなく、倒れた自転車を起こすのに必死だった。

確かに僕のこぎ方は元々ぎこちなくて、バランスも上手く取れないし、速度も出せない。
それは、みんなに比べたら遅いという意味で、僕のいけないところであることは間違いなかった。
こけた後、しばらく起き上がれなかったのもダメだったと思う。
砂利道だって、普通の人は上手く走れるだろう。でも僕にはできなかった。

だから僕は自転車を捨て、来た道を引き返した。周りから、ほとんど声は聞こえてこなかった。